小説 春の雪

淡雪に恋して

私の名は葛城悠一郎。退職期も近い55歳の冴えない中堅管理職です。春も近い冬のある日の出来事でした。朝8時30分ころのことです。何時ものようにマイカーを運転して出勤し、会社の駐車場に車を止め、「・・・この冬は雪が少ないな」と思いながら周囲を見渡していました。それ自体は心を動かす出来事ではないのですが。3年ほど前に出会った女性がこの白い雪を見て思い出されます。その年も雪が少なくあたたかい冬でした。その朝も今朝と同じく、明け方に少しばかり降った雪がうっすらと地面を覆っていました。空は抜けるように青く太陽は白く輝き、風のない穏やかな朝でした。私が何時もと変わらぬ時間に出勤すると、一台の紺色の軽自動車が私の止めた車の前を通り過ぎ、一台分空けて私の車の左側に止まりました。ドアーが開き一人の女性が降りてきました。なにやら車の中から荷物を降ろそうとしているようです。私が近づいてゆくと、彼女は私の気配を感じたのでしょうか、はっとした様子で振り返り、私を見て、にこやかに「おはようございます」と声をかけながら、急いで小さな荷物を手に持ち、小脇にバッグを抱えて会社のビルの入り口に向かって走って行きました。私はその後姿を見ながら、妙な気持ちになっている自分に気づきました今までに感じたことのない?いや、はるか昔に経験したことがある不思議な感情が湧き上がるのを感じていました。胸が熱くなり、切ない思いになりました。「なんだろう?こんな気持ちは近頃覚えがないな。」会社の建物の中に入り彼女の姿を探しましたが、すでに彼女の姿は消えていました。しばらくその場に立ち尽くして彼女が現れないかと見渡していましたが、うしろでエレヴェータのドアーが開く音して我に返り、急いでエレヴェータの中に入りました。我ながら不可思議な行動をしている自分に気付き、とても、気恥ずかしく顔が紅潮してゆくのがわかりました。7階のフロアーに到着して、自分の部署に着き、終日忙しく仕事をこなし、帰宅する時間になりました。駐車場に出ると今朝の女性が私の前を会釈をしながら車で通り過ぎて行きました。私も軽く会釈をして自分の車に乗り込み帰宅の途に着きました。風呂に入り、食事をして、少しホームページを書いてベッドに入りました。今朝の女性の笑顔が浮かんできました。「素敵な女性だったな」思い出すと、なかなか寝付けませんでした。心地よい興奮が続き眠気を退けるのでした。私は静かにベッドを抜け出し、書斎に行きました。 昔聞いていた「ポール・モーリア」を聞きたいと思ったのです。本棚の隅にあった「リルケ」の詩集を手に取り、壁際のソファーに腰を降ろし、ヘッドホンを掛けました。心地よい音楽に耳を傾けながら、子供のころ読んだ「リルケの詩集」に目をやりました。少しして、また朝、あの人にあったとき湧き上がった不思議な感情を思い出しました、その時には気づかなかったのですが、若いころの初恋の相手に出会ったときの気持ちに似ていることに、気づきました。やるせない気持ちで胸がいっぱいになりました「一目惚れってやつか・・・」自分が考えていることが可笑しくて声を出して笑ってしまいました。「この歳になって、一目ぼれか。あはは!」笑った後、妙に寂しくなりました「あの子はなんという名前なんだろう?」そして「独身だろうか」その夜はその人のことが頭から離れませんでした。「やきが回ったな」そう思って苦笑をしました。その夜は明け方になって、ようやく眠りにつくことができたのでした。