小説 春の雪- 第1章 ・第3節

淡雪に恋して-3

時計が正午を回りました。昼食をとるため食堂へ向かいました。「今日はこのフロアーにある食堂には行かず2階にある食堂へいってみよう。」私は、そう考えていました。エレベータが2階で止まり、ドアーが開きました。エレベータを降り、左に折れて廊下を進むと突き当たりに食堂が見えています。食堂へ入ると入り口から一番近いテーブルに座りました。「・・・ここなら彼女が来れば見逃すことはないだろう・・・」テーブルから一番近くにあるサンドイッチとコーヒーを取り彼女が来るのを待ちました。しかし彼女は現れませんでした。1時になり私は「ふーっ」と、溜息を漏らし、立ち上がりました。「来なかったな、どうしたんだろう?外食かな?手作り弁当か?・・・。彼がいて外食かな?」ひどく憂鬱な気分になりました。「このままオフィスに帰っても仕事にはならないな。」外へ出てみようと思い立ち、階段へ向かいました。足取りは重く、階段がひどく長く感じられました。玄関のホールへ降りてみると、入り口に彼女の姿がありました。彼は勢いよく駆け出しましたが、すぐに立ち止まりそれからゆっくりと入り口に向かって歩いていきました。胸が高鳴ります。はやる心が足を速めようとします。何気ない振りをして彼女に近づき、偶然を装って声をかけました。「こんにちわ」それが精一杯でした。彼女は無言で会釈をして、迎えに来た車に急いで乗り込みました。「あの車の運転手が彼なのか・・・。」悠一郎は後悔していました。「あのままオフィスに戻っていれば・・・見ずに済んだ光景だった・・・。」オフィスに戻るためにエレベーターホールへ向かいました。仕事場に戻る人が多く、ひどく込んでいました。その雑踏に耐えられなくなり、階段へ向かいました。一段一段踏みしめながら上っていきました。2階の階段を上り始めたとき目頭が熱くなってきて、涙が出そうになりました。悠一郎は2階のトイレに入り、顔を洗い鏡を見て驚きました。鏡に映る自分の顔は眼光鋭く、怒りと憎悪に満ちた険しい顔をしていたのです。鏡に映し出された自分の顔を見ながら若いころの自分を思い出していました。

回想

21歳になった夏の終わりに近いころのことです。悠一郎には会社の同僚の女子社員の中に好きな子がいました。その人に気持ちをうち明けられずにいたのです。その人とは毎日顔をあわせ、気さくに話をし、たまには二人で飲みに行くこともありました。恋人としての仲ではなかったのですが、周囲からはそう思われるほど親しく付き合っていました。ある日その人から手紙が来ました。その人が結婚する直前になって、彼女から気持ちを打ち明けられたのでした。その手紙には「悠一郎さん、あなたのことが好きでした。あなたが私に優しくしてくれていたのは、あなたが私のことを好きでいてくれていると思っていました。いつかはプロポーズしてくれると信じて、ずーっと待っていたんです。今でもあなたのことが一番好き。でも・・・私、結婚するんです。こんな手紙をもらって、ご迷惑でしょうか?でもぜひ聞いておきたいのです。悠一郎さんは私のことは嫌いなのですか?嫌いなのでしたらあきらめます。でも、嫌いでなければ、最後のお願いがあります。一度だけ私を抱いてください。」そう書いてありました。悠一郎はすぐに電話を掛けたのです。誰が出るのか少し不安はありましたが、躊躇なくダイヤルしました。電話口から「もしもし渡辺です」。紛れもない彼女の声でした。「悠一郎さんね!」「そうです」「よかった!私会社を辞めたんです。もうあなたに会えないと思うと、寂しくてしようがありません。それであんな手紙を・・・。迷惑だったでしょうか?」「いいや、とんでもない迷惑なんかじゃないよ。それより結婚は取りやめてくれ。僕も君のことが大好きなんだ。今まで言い出せなかったけど。いま、はっきり言うよ。僕と結婚して欲しい。」・・・。「それは・・・無理なんです・・・。悠一郎はこの結婚の話には、隠された事情があることを察しました。「とにかく逢おう、これからすぐに逢って話をしようよ」。彼女は悠一郎の話に同意して「今から支度をして何時ものところへ行きます」何時ものところと言うのは、彼女が行きつけの喫茶店であることはすぐに理解できました。「時間は?」と尋ねると「1時間後に行けます。」と応えたので「わかった。それじゃまた後で」と言って電話を置きました。
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